借地借家法「正当事由」を巡る近時の裁判例分析と賃貸経営の留意点
弁護士 大髙 友一
このたび、商事法務研究会より「借地借家法の更新拒絶等要件に関する調査研究報告書」(令和7年3月)が公表されました。この報告書は、建物賃貸借契約の終了をめぐって「正当事由」の有無が争われた、令和元年5月から令和6年3月までの近時の裁判例137件を分析したものであり、不動産賃貸業を営む方々にとって、貸主(賃貸人)としてどのような対応が求められるのかを知る上で極めて重要な内容を含むものと思われます。
本稿では、この報告書の内容を分かりやすく解説し、今後の賃貸経営における留意点を簡単にご紹介します。
1「正当事由」の基本的な考え方
賃貸人が建物賃貸借契約の更新を拒絶し、または解約を申し入れるには、借地借家法第28条に基づき「正当事由」が認められる必要があります。
正当事由の有無は、以下の諸事情を総合的に考慮して判断されます。
(1)賃貸人及び賃借人が建物の使用を必要とする事情
(建物使用の必要性)
(2)賃貸借に関する従前の経過
(3)建物の利用状況
(4)建物の現況(老朽化の程度や耐震性能など)
(5)賃貸人が建物の明渡しの条件として、あるいは明渡しと引換えに賃借人に対して財産上の給付(立退料)をする旨の申出をした場合におけるその申出
これらの諸事情のうち、特に賃貸人側と賃借人側の「建物使用の必要性」の比較衡量が「正当事由」の有無を判断するにあたっての基本となります。その上で、双方の事情を比較し、建物の現況や立退料などの他の要素で調整を図るという運用が定着しています。
2 賃貸人側の事情:建替えの必要性と耐震性能
報告書によれば、近時、賃貸人が更新拒絶や解約を主張する際の最も重要な要素の一つとなっているのが「建替えの必要性」です。報告書の検討対象となった裁判例(対象裁判例)の半数を超える事案でこの主張がなされており、建物の老朽化や耐震性能の不足が主な理由となっています。
(1)老朽化による正当事由肯定の増加傾向
対象裁判例のうち建物の老朽化を理由として明渡しを求めた事案は、建替えを理由とする事案のうち約87.4%(76件)を占めており、そのうち正当事由が認められた割合は約71.1%(54件)に上ります。これは、過去の同じ調査(平成16年:肯定割合55.0%)と比較すると、建物の老朽化を理由として明渡しが認められる傾向が高まっていることを示唆しています。
(2)「耐震性能」の不足への着目
近年の大規模地震の多発に伴い、建物の耐震性能に対する社会の関心が高まっているところ、老朽化を理由に正当事由が認められた対象裁判例の約87.0%において、耐震性能が判断要素の一つとされています。
対象裁判例の中には、耐震性能が不十分な建物は、賃借人だけでなく、倒壊や崩壊によって近隣にも迷惑をかける可能性があるという社会的な要請を指摘するものもあり、耐震性能の不足は正当事由判断の重要な考慮要素となってきているようです。ただし、耐震補強工事を行うことが経済的に合理的である場合や、具体的な建替え計画がない場合、あるいは立退料の申出額が不足している場合は、正当事由を認めない事例も見受けられます。
(3)「建替えの必要性」と「建物使用の必要性」の関係
賃貸人側が「建替えの必要性」を主張する場合、そもそもこれは借地借家法第28条の「建物使用の必要性」に当たるのか、という問題があります。
この点、対象裁判例においては、「建替えの必要性」を「建物使用の必要性」と連続的に捉える事例が圧倒的多数を占めています。建替えが経済的合理性を持つ場合(耐震補強や老朽化対策工事の費用対効果が低い場合)には、賃貸人にとって建替えが合理的と判断されやすく、これが建物使用の必要性を裏付けることになります。
3 賃貸人側のその他の重要事情:有効活用と具体的計画
報告書によれば、対象裁判例においては、建替えの必要性以外にも、以下の二点が賃貸人側の事情として考慮されています。
(1)有効活用の観点
建物やその敷地が有効に活用されていないと判断される場合、賃貸人に有利な判断がされる傾向があります。例として、好立地であるにもかかわらず建物の老朽化で収益性が低い場合、近隣相場よりも家賃収入が少ない場合などが挙げられます。
しかし、収益増大のみを目的とした建替え意図は、正当事由の趣旨を没却するものとして退けられる可能性が高いようです。そこで、有効活用は、建物の老朽化や耐震性能の不足といった客観的な事情と組み合わせて主張することが重要となるものと考えられます。
(2)明渡し後の具体的計画の有無
賃貸人側が明渡しを受けた後の具体的な活用計画(建替えの設計図・資金計画、自己使用計画、解体して駐車場とする計画など)の有無も、正当事由の判断に大きく影響します。
耐震性能の不足が認められる事案であっても、具体的な活用計画がない場合には、正当事由が認められないことがあります。計画の具体性や実現可能性を高める要素(例:他のテナントがすでに退去済みであること)は賃貸人に有利に働きますが、賃貸人自らが賃料収入の低下を招く状況を作出した場合は否定的な判断が下される可能性もあります。
4 賃借人側の事情と「立退料」による利益調整
賃貸人側に「正当事由」を認めるべき事情がある場合であっても、以下のように賃借人側に認められる事情によっては、明渡しが認められないこともあります。
(1)賃借人の建物の使用期間
賃借人が建物を長期間使用している事情は、正当事由を否定する方向に働く傾向があります。明確な基準はありませんが、使用期間が長期になるほど、賃借人の利益が保護される可能性が高まります。
(2)物件の代替可能性
賃借人が当該物件でなければ要望が叶えられないか(物件の代替可能性がないか)どうかも、重要なポイントとなります。
事業用賃貸借:賃借人からは移転による休業損害や多額の移転費用が生じるという主張がなされることが多いところ、これらの不利益は、多くの場合、金銭による解決(立退料)になじむと判断される傾向があります。例えば、対象裁判例においては、駅近の好立地で常連客が多く代替店舗の確保が容易ではない場合であっても、立退料で清算できると判断された事例があります。
居住用賃貸借:居住期間が長く、賃借人が高齢である場合など、移転を求めることが過酷な場面もありますが、通院の利便性や引っ越し作業の困難性といった事情も、裁判所は立退料の増額によって解決を図りうると考える傾向が認められるようです。
(3)立退料の補完的役割
立退料は、あくまで正当事由の補完的要素であることが大前提です。賃貸人側の建物使用の必要性が低いにもかかわらず、高額な立退料の提供のみで正当事由が具備されることはありません。しかし、立退料の支払いを申し出ることが常態化しており、正当事由の具備を補完しています。
対象裁判例では、大規模な再開発を理由とした事業用建物において、立退料の最高額が8億3000万円に達する事例があるなど、立退料の金額が上向く傾向が見られます。もっとも、立退料の算定は、借家権価格、移転費用、営業補償などを考慮しつつ、当該事案の諸事情を総合的に考慮した利益調整の結果であり、あらかじめ統一的な算定基準を示すことには困難な面があるのが実情です。
5 今後の賃貸経営における留意点
この報告書の分析結果を踏まえ、不動産賃貸業を営む方々が、将来的な建替えや有効活用を見据えて建物賃貸借契約の終了を希望する場合において、特に留意すべき点は以下のとおりかと思われます。
(1)客観的な証拠の確保と「建替えの必要性」の立証
賃貸人側より建物の老朽化と耐震性能を主張する場合、客観的な資料を事前に取得し、具体的に提示できるように備える必要があります。例えば、耐震診断を実施し、倒壊の危険性や、耐震補強工事が経済的合理性を欠くこと(費用対効果が低いこと)を証明するための専門家の報告書を取得しておくことや、建替え(新築)にかかる費用と老朽化対策工事にかかる費用の対比を示すなどして、建替えが合理的な選択であることの立証の準備が求められます。
(2)明渡し後の具体的計画の策定
裁判所に「建替えの必要性」と「建物使用の必要性」を連続的に捉えてもらうためには、明渡しを受けた後の具体的な活用計画が不可欠です。単なる「有効活用」という抽象的な主張では認められません。例えば、建替えを計画しているのであれば、建替え後の建物の設計図、資金調達計画、完成予定時期などを具体的に示し、計画の実現可能性を高めることが求められます。
(3)適正な「立退料」の算定と提案
立退料は、正当事由を補完する重要な要素となります。賃借人の移転に伴う具体的な不利益(移転費用、休業損害、事業の固定客の喪失リスクなど)を詳細に調査し、これらをカバーできるだけの十分な立退料を算出し、これを提示することが求められます。
また、居住用物件における居住期間が長い賃借人や高齢の賃借人に対しては、引っ越しに伴う精神的・肉体的負担も考慮し、手厚い金額を提示することで、総合的な利益調整を図ることが必要となります。
(4)弁護士等の専門家への「前広な相談」の重要性
建物賃貸借契約の契約の更新拒絶や解約の申し入れにおける正当事由制度は、裁判所が個々の事案の諸事情を総合的に考慮して妥当な結論を導き出す仕組みであり、具体的な個別ケースにおける予測可能性は依然として低いのが実情です。
このため、契約の更新拒絶や解約の申し入れを検討されている賃貸人の方々にとっては、適切な準備と早期の弁護士等の専門家への相談こそが、賃貸経営におけるリスクを最小限に抑えるための最善の策であるといえるでしょう。


